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TEL.052-351-6727

〒454-0912 名古屋市中川区野田一丁目545番地

名古屋市立野田小学校

〒454-0912
名古屋市中川区野田一丁目545番地
TEL.052-351-6727
FAX.052-352-9479
E-mail: noda-e@nagoya-c.ed.jp

学校紹介INTRODUCTION

   
野田学区の紹介   野田学区の紹介


 野田小学校は、昭和48年に荒子小学校から分校独立して誕生しました。
 昭和49年に野田学区に区役所、保健所、消防署が設置されました。昭和57年には、地下鉄が高畑まで延長開通し、近鉄、あおなみ線、バス道路の八熊線と合わせて交通の便がとてもよくなり、中川区の中心として発展してきました。地下鉄八田駅は、平成18年に統合化され、駅南側の駅前広場およびロータリー完成。市バス、JR、近鉄の連絡がとても便利になりました。
 公園が多いことも特徴としてあげられます。大小合わせて学区に7つの公園があり、親しまれています。特に、野田公園、高畑公園は大きく、地域の方が野球やグランドゴルフを楽しんだりしています。古くからの寺社も多く、公園と合わせて緑がたいへん多く、落ち着いた雰囲気に包まれています。
 学区の方の苦労と協力のたまものにより、きれいで安全な学区として発展しています。





























    

野田学区の紹介


@中川区役所

A保健所・休日診療所
 
B中川消防署


C地下鉄高畑駅
 
D野田交番


E県立中川商業高校

F市営たかはた荘

G荒子川
 

H野田公園
I高畑公園 

J西塩田公園
 
K宮北公園

L茨塚公園

M龍潭寺
N新明社
O八王子神社
 
P大きなスーパー
  

昔の野田学区の様子














 野田学区の歴史・文化の様子です。「中川区史(昭和62年区役所刊)」「なごやの町名(平成4年名古屋市計画局刊)」「中川区の歴史をたずねて(昭和55年中川区老人クラブ連合会刊)」などの文献を参考にしています。

【地名の由来】
 野田は,一般に「ヌダ(沼田)」が転化して地名になった場合が多く,湿地または湿田を意味しているとされています。

【平安時代〜鎌倉時代】
 野田学区が歴史に登場するのは,中世封建制下の荘園制の時代です。約一千年ぐらい前は,岩塚,横井から野田,打出,高畑,中郷,荒子の辺りまでを「尾州一柳の荘」と称し,一柳氏の所領であったと考えられています。一柳氏は,四国の出身で,一柳の荘を領有してから一柳氏と称したと伝えられ,戦国時代に入って,この地を去って美濃・伊勢を経て四国西條の城主になったと言われています。
 また,この辺りは,「一楊御厨(いちやなぎみくりや)」として伊勢神宮の神領として年貢を伊勢神宮へ納めていたそうです。御厨とは,神領地のことで,献上物を産出する土地のことです。献上米を納めていました。

【平安時代〜鎌倉時代】
 野田学区が歴史に登場するのは,中世封建制下の荘園制の時代です。約一千年ぐらい前は,岩塚,横井から野田,打出,高畑,中郷,荒子の辺りまでを「尾州一柳の荘」と称し,一柳氏の所領であったと考えられています。一柳氏は,四国の出身で,一柳の荘を領有してから一柳氏と称したと伝えられ,戦国時代に入って,この地を去って美濃・伊勢を経て四国西條の城主になったと言われています。

【戦国時代】
 尾張からは,様々な有名な武将が輩出していますが,前田利家は,この地の出身の優れた武将として有名です。
 前田利家は,天文7年(1538)海東郡の土豪前田利昌の第4子として生まれました。幼名を犬千代といい,出生地については,荒子城説と前田城説の2通りがあります。幼年時代から織田信長に小姓として仕えていました。14歳で初陣,桶狭間の戦いに隠れた戦功をあげ,美濃の斉藤氏との戦いで武勲をあげて,勇士のみが加わることが許された赤母衣武者の一員になりました。32歳で,兄の利久に代わって前田家の家督を継いで荒子城主になりました。その後も,各地の戦いで功をたて,長浜一万石,越前府中三万五千石を経て,後に加賀百万石の大名になります。
 また,前田利家は,天平元年(729)泰澄の草創とされる荒子観音(正式な名称は浄海山圓龍院観音寺)を天正4年(1576)に再建しました。荒子観音は,前田利家の菩提寺となっており,江戸時代から尾張四観音の一つとして親しまれ,栄えています。境内多宝塔(二重塔)は,重要文化財に指定され,市内最古の建造物です。
 野田小学校の校章には,この前田利家の家紋の梅鉢がデザインされて使われています。

【江戸時代】
 江戸時代に,このあたりは野田村と称していました。
 寛文年間(1661〜73)には石高981石,家の数61件,人数318人,馬27頭と比較的小さく,竹林もありました。農業を主として,余業に瓜(うり)や莚(むしろ)を作り,下小田井の市へ売りに出していたそうです。

【昭和時代】
 右の写真は、写っている車などから,
1960年代から1970年代頃だと思われる、野田学区の高畑荘付近の様子です。
 現在と違って高い建物はありません。また,道路も未舗装のようです。
 3枚目の写真には,遠くに,水道公園の建物が写っています。
    

  
   
































































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